令和5年6月21日(水)
島内巡検2
長崎県埋蔵文化財センターの白石様・山梨様に以下の4箇所を案内して頂きました。
(1)双六古墳(2)遣新羅使の墓(3)椿遺跡(4)中尾遺跡
(1)双六古墳は6世紀終わり頃に築造された長崎県最大の前方後円墳です。長崎県には450の古墳があり、そのうち、壱岐には284基の古墳が確認されています。長崎県の古墳全体の60%は壱岐にあります。今から2200年前から1650年前に栄えた弥生時代の一支国の中心集落遺跡、原の辻遺跡が活動をしなくなり、150年ほど経ってから壱岐のほとんどの古墳は築造されています。そのうち、双六、対馬塚、笹塚、兵瀬、掛木、鬼の窟の6つは壱岐古墳群として国史跡に指定されています。527年磐井の乱鎮圧に功績のあった人物との関わりがあったのではないかと考えられているこれらの古墳には副葬品に大陸あるいは大和政権との関わりを伺わせる金銅製品が一緒に見つかっています。双六古墳で出土した日本最古の二彩陶器は中国の北斉という国で製作されており、重要文化財に指定されています。そのような壱岐の中でも特に重要度の高い双六古墳を案内してもらいました。名前は「双六」と書いて、「すごろく」ではなく「そうろく」と読みます。古墳の中は明かりを灯さなければもちろん真っ暗。ということで、江戸時代、この古墳の中で賭博をしていたことから、このような名前がついたと江戸末期の『壱岐名勝図誌』に記されています。石室の壁には船を刻んだ線刻画があります。いつ刻まれたのか特定することはできませんが、船には松浦藩の家紋を想起させる模様があります。しかし、だからと言って壱岐が松浦藩と関わりがある頃に刻まれたのか、それ以前にあった船の線刻画に後々の人が追記したものなのかは特定することはできません。線の種類が異なっているようにも見えるので、後者かな、と想像することはできますが、これに関心を持って研究する生徒が出てくるといいな、という解説を石室の中で頂きました。普段、双六古墳は鍵が掛けられて、中に入ることができませんが、今回、埋蔵文化財センターに解錠してもらって中に入ることができました。
(2)遣唐使ではなく、遣新羅使の墓です。日本は、663年白村江の戦いで日本と関わりのあった朝鮮の百済を滅ぼした、中国の唐・朝鮮の新羅の連合軍と戦って敗れています。その後、先進の学問や文化、技術、国際情勢についての情報を得る目的で日本から新羅に派遣された使節が遣新羅使です。その遣新羅使・雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)がこの壱岐で流行病のため亡くなっていて、その挽歌は万葉集に残っていることから「万葉の里・石田野(いわたの)」として知られています。立派な石碑が立って、案内板も設置されていますが、肝心の遣新羅使の墓、というのはそれらの石碑の死角になっているところにひっそりと立っています。指摘されなければ見落としてしまうような場所にありました。
(3)椿遺跡は弥生時代の後、古代の遺跡です。石田印通寺港と原の辻遺跡の間に位置します。壱岐は玄界灘に浮かぶ島として、大陸と日本列島の橋渡しをするような場所にありますが、どうやら8世紀頃には福岡宗像辺りから壱岐を通らず、沖ノ島を経由し、対馬を経て、韓半島に渡っていたようです。しかし、原の辻遺跡の南端では8世紀中頃に成立したイスラーム・アッバース朝の陶磁器片が出土していることから8世紀以降、まったく壱岐を経由していなかった訳ではないだろうと考えられています。まさに、その頃の時代の痕跡をうかがい知ることができる遺跡です。あいにく雨が降り始め、長居はできませんでしたが、畦で小さな須恵器片を採集することができました。
(4)中尾遺跡は石田・唐人神辺りにある縄文時代の遺跡です。しかし、雨がひどくなり、残念ながら場所を確認してこの日の巡検を終えました。